2010年7月20日火曜日

法明寺鬼子母神



東京都豊島区にあります、法明寺鬼子母神に行ってきました。
池袋の都会にこのような場所がある事を知らず、たまたま文献を観て参った場所で、印象深い場所でした。

鬼子母神は元々インド大乗仏教の十羅刹女と言われる仏教の天部における10人の女性鬼神と共に護法善神(仏法及び仏教徒を守護する天部の神々)の一人です。
鬼子母神は子持ちの神として日本でも有名ですが、どのようにして“子授け”“子育て”の神となったのでしょう?

その答えは『雑宝蔵経』巻九に『鬼子母神失子縁』で書いてあります。

〝鬼子母(ハーリティー)は鬼神王の般闍迦(パンチカ)の妻であり、この夫妻は一万の子持ちである。大力士の力量を持ち、その最も小さい子を嬪伽羅(ピンカラ)と呼んでいる。この鬼子母神は生来凶妖にして暴虐であり、人々の子女を殺して自ら噉食するので世間の人々はこれを苦患としていた〟

鬼子母神は元々人の子を食う鬼だったのでした。
では人の子を食う鬼はどのように神となったのか?続きはこうです。

〝一日世尊はその末子のピンカラを鉢の底にかくされる。ピンカラを失った鬼子母神は愛児を求めて天下を周遍して七日の間探しまわるがその子はみつからない。鬼子母は世尊に一切智がある事を聞いて仏陀の住所をゆきてその教えを受けるのである。世尊は鬼子母に対して万子の中のただ一子を失ってさえもこのような苦悩をなすのに、世人は一人児や二子・三子までも汝の殺害にあって悲嘆にあけくれているとその悲行をさとしている。そこで鬼子母は今ピンカラをうれば終生世人の子を殺さない事を誓い、世尊は鬼子母に三帰五戒をさずけ終わってピンカラをかえされる〟

ここではそのあとに鬼子母に持戒をすすめて、汝は迦葉仏のとき大いに功徳をなしながら持戒をおこなったので鬼形をえたと、その前生を物語っている。
鬼子母神は世尊にピンカラを奪われ、人の痛みを知り、持戒を行い鬼子母神となったのでした。
この物語からは、人の痛みや悲しみを知る心、そして慈悲の心などの教えが示されています。

このような話はインドから渡って、日本ではどのように伝わってきているのでしょう?


面白い本を見つけました。
明治維新を生きた杉本鉞子さんの著『武士の娘』からそのまま引用させてもらいます。

〝鬼子母神についてこんな伝説があります。まだ、仏様がご在世の頃、たくさんの子持ちの母が大変貧しくて、子供にろくろく食物を与える事も出来ず、唯餓死するのを見守るばかりでありました。母親は苦しみぬいたあげく、その愛の心が変じて、悪鬼となり、夜ごとに村里をさまよい歩いては、赤ん坊をうばい、魔法を使って、それを我が子の食物に変えて、与えるようになりました。
やがて、そんの名が国中の人の恐怖の種となってしまいました。仏様は母親がどんなにたくさんの子をもっても末の子を一番に愛するものだということをご存知でしたので、この鬼女の末子を奪い取り、鉄鉢の中へ隠しておしまいになりました。子供の泣声は聞こえながら、そのありかは何処とも知れませんので、鬼女も苦悩と悲嘆に狂乱の姿になりました。慈悲深い仏様は赤子を鬼女の手に返しながら『きけ、世間の母親は十人くらいの子しか授からぬに、汝はすでに千人の子を授かったではないか。しかも、その一人を失ってさえ嘆き悲しむものを、他人の痛める心の程を、その心を持て察してみよ』と仰せられました。
鬼女は、我が子をひしと胸に抱き、感謝の涙にくれました。その時仏様は熟した石榴の実を鬼女に授け『これこそ汝の好む味わいをもつ木の実であるぞ』と仰せられました鬼女の心は懺悔と感謝にいやされ、末永く幼児の守り神となる事を誓いました〟

とあります。
ちなみに『武士の娘』に載っていたのは杉本鉞子さんの書いた文章でこの鬼子母神が一般的に日本に伝わっているとは限りません。しかし一部ではこのように伝わっていました。
日本の伝わり方は多少違うところがあります。
日本の鬼子母神は子供の為に仕方がなく他の子を食っていたとあります。しかも鬼子母神は貧しく食物を子供の与える事が出来ません。
とても人間的な鬼子母神として描かれています
日本の鬼子母神信仰には他の子より自分の子のほうがよく見えるという親ばかのススメのようなお話しになっているような気がします。
面白いのは“我が子の為に赤ん坊を奪い、魔法を使ってそれを我が子の食物に変えていた”と子供を奪っていた鬼子母神の母親像が描かれており、この物語に本当の悪がいないということです。
鬼子母神にも感情移入できるようにして、まるで『あなたは鬼子母神になっていませんか?』と聞いてくるような話になっています。世の親ばかと後世の親ばかにこの話を語り継ぎたいと思う昔の日本人の思想が表れているようです。

多くの人に語り継がれ、この鬼子母神堂は人々に愛されてきたのが解りました。
この雑司ヶ谷の鬼子母神はこのような話も残されています。

〝1561年5月16日。この地の山本氏が田地を穿ったところ、一仏像を得た。東陽坊五代の日性を見せたところ鬼子母神とわかり、そのまま仏殿の傍に安置した。
しかし1577年頃、日性に仕える僧がそれを盗み故郷の安房国に持ち帰ったところ、その僧はたちまち病を発し口ばしりに言うには我はもと武州雑司ヶ谷にあり、かのちの衆生、機縁すでに熟す。済度すべき時をえて泥土より出現せしをここに移すこと我が心あらず、元のところに送り還すべしと。そこで村人は大いに恐れ再び雑司ヶ谷の東陽房に還しこの鬼子母神像の零威を知った人々は1578年五月堂を創し安置した〟

とあります。
歴史的にみると、都会の真ん中にある鬼子母神というより鬼子母神の周りに都会があると言った方が正しいのかもしれません。

私は鬼子母神堂を参拝し、心が洗われたような気持ちになったのは、
多くの人々の鬼子母神信仰があったからなのかもしれません。

 



鬼子母神のお話を漫画で描いている人がいます。
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